今日の朝練はしょうたとしおりとラン3km。
今日で東日本大震災から9年たつのか。。。。
自分は当時は前職でたまたま新宿駅の地下にいた。
丁度、宮城にいる母と妹と電話で話していたところ。。。、突然電話が切れた。
その後、足元がフラフラしたので、仕事疲れによる眩暈かなと思ったけど、どうも周りの様子がおかしい。みんな慌てて騒いでいる感じだった。
暫くして、地上に上がると、スタジオアルタのスクリーンに津波の映像が映っている。
中継は確か、宮城県の山本町かどっかだったと思うけど、次々と町が津波でのまれていくシーンが写っていて、背筋が凍った。
その時点では、テロップで死者3人とかでていたけど、その光景から3人で済むはずがなく、数千から数万になる規模だと直感した。
宮城の家族とも連絡が取れず、妻とも連絡が取れず、一旦会社に徒歩で戻り、会社に7時半頃まで待機。
会社に泊まる者、自宅に戻る者で分かれたが、自分は帰宅組になった。
電車が止まっていたため、会社のあった中野から徒歩で自宅まで変えることを決めた。
外に出ると、多くの人が歩いていた。
2011年の3月11日の日中は、今日と同じで春のような陽気であったため、春物のジャンパーを着て出勤していた。
しかしながら、夜は冷えはじめ、その中を徒歩で帰るのだから、後悔したことを今でも覚えている。
中野から新宿、市谷と外苑通りを歩いていって、まずは連絡が取れない妻が働いていた日本橋へ彼女を迎えに行こうと思って向かった。
途中、昼食で食べた神保町のざぼうるを再び通り過ぎる。
丁度、神田辺りで妻からのメールが3時間遅れ位で来て、家に向かっており、保育園に預けているしょうたを迎えに行ったことを知った。
そのため、日本橋に行くことを中止し、何故か銀座線が若干の区間動いていたため、末広町から上野までは電車に乗った。
その後、上野で降りて4号線をひたすら歩いて、自宅に帰った。
4号線を北に徒歩で進んで行く人もたくさんいたけど、徐々に人が減っていくのが寂しかった。
結局、家に着いたのは深夜1時半だった。。。
あの日、自分が生まれ育った町が被災して、多くの人や物が失われた。
あれから9年たつけど、今でも昨日のことのように思い出す。
俺は絶対に忘れない。。。。
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