今日は金町トライアスロンクラブのSさん3姉妹と江戸川CRとバイク練。
基本連では、Sさん3姉妹としょぼしおの技術力の差がはっきりわかって、かなり危機感。
これは相当自主練して、バイク操作に慣れておかないと、3姉妹の練習の邪魔になっちまうな。。。。
そして、帰宅してから珍しく妹から電話連絡が。。。。
電話の内容は、早朝3時過ぎに父が亡くなったとの事。
元々40代で胃がんの全摘手術を行い、それ以降もタバコとアルコールの過剰摂取を辞められず、不摂生な生活を送っていた父は、今年2月頃にはいわゆる最終ホスピタルに転院し、もって年内と言われていたため、ある程度覚悟はできていた。
しょぼしおを連れて帰郷しても、自分の部屋で酒に入り浸り、姿を一切見せなかったので、もの心ついてから、しょうたとしおりが俺の親父と会話したのは殆どないのだけど、でも、本当は、最後にしょぼしおを連れて宮城に戻って、一度父と会わせてやりたかった。
ただ、コロナの影響で、病院は一切面会謝絶であったため、コロナが落ち着くまで待とうと考えていたんだけど、思ったよりコロナの影響が本格化し、父が逆にもたないという結果になってしまった。。。。
勿論、俺はすぐにでも田舎に駆けつけるつもりだったのだけど、妹から聞いた言葉は信じられない言葉で、母親が実家に一緒に住んでいた長男と2人で明日火葬するので、葬式もやらないし、火葬場にも親族は一切呼ばないとのこと。
埼玉にいる俺や妹一家、山形にいる次兄、関西にいる父母の親戚も一切呼ばないし、葬儀に来ないでほしいと。。。。
正直、あまり尊敬できる父ではなかったけど、ただ、俺が今こうしていられるのは父のおかげであるのは間違いないので、せめて、肉親の死に目には会いたいと俺は思っていた。
しかし、母に電話しても、県外の人間は来るなの一点張り。
母曰く、その中でも特に、俺は仕事柄、コロナ影響下で休みもなく、多くの人と接する、そして妻は都内で働いているため、満員電車で多くの人と接触がある、俺一家は絶対に来ないでほしいとのことだった。
その後長男からも電話があり、無症状でもコロナの菌を保有している可能性がある。
埼玉や東京の人間は絶対に宮城に来るなの一点張り。
母や長男がそのような拒絶をしてきても、妹や同じ宮城の人間である妹の旦那は俺と同じ考えで、いくら不要不急の外出が禁止と言っても、これはそうじゃないだろ?と参列したい意思があった。
ちなみに、俺も家族を連れて行かず、単身、車で火葬場に直行直帰の譲歩案もダメで、次兄や妹経由でどんなに母に掛け合ってもらっても、泣きながら「親不孝者!」「今度は自分達を殺しに来るのか!」と泣きながら言われた。
正直、何か洗脳された人を相手にしているようでぞっとしたけど、さすがに泣かれてまで葬儀に来るなと言われると、気が引けて、結局、俺も妹も次兄も葬儀には参列せずに、香典だけを振り込むこととした。
そして、俺の考えが全うだろうと思っていたところ、周りの話を聞くと、関西にいる親父の兄妹や親戚達は、このような状況下、県を越境したくないと参列を自ら拒否、妹の義理の旦那一家も参列する意思がそもそもなく、妹一家に実家に来ないでほしいと言ったとか。。。宮城の企業は県外の人間と接触すると2週間外出禁止になるとかで、東京埼玉よりもずっと厳しいようだ。
関東にいると、地方の状況がよくわからなかったけど、地方の方が今回のパンデミックにひどい恐怖を感じているように感じた。
むしろ、俺達関東の人間の方が危機意識が足りないのか・・・・?なんだかよくわからなくなってしまった。
正直、絶縁されたわけでもないのに、肉親の葬儀にも行かないという行為を俺は非人道的に感じるけど、今回ばかりは仕方がないのか。。。。。?
何ともやりきれない。
思えば、父は仕事は出来たらしいが、タバコと酒と女が大好きで、アル中、愛人とトラブルは数知れず。
また、単身赴任でたまに帰ってきても俺はいつも怒鳴られ、怒られ、殆ど会話もしたことなかったけど、小さい頃、怒鳴られながらも、仙台港へ魚釣りへ連れて行ってもらったこと、そして釣った魚を裁いて食卓に並べてくれていたことはよく覚えている。
そして、社会的には地位がある人だったので、小学生時代は、夏には毎年北海道旅行に行ったこともよく覚えている。
確か、高校2年生の9月、父と母で札幌旅行に行く予定だったのを、母が病気だかで行けなくなり、急遽俺が前日に父と札幌旅行に2人で行くことになった。
経緯はよく覚えてないけど、札幌に着くなり、「温(ぬく)めてもらわなければならん」とか言って、ゴージャスな浴場みたいなところに連れて行かれ、よく分からないで大浴場に入ってたら、突然若い女が体を洗うために入ってきて、男1人1人に付き・・・・・(笑)と、よくわからない展開で逃げ出した記憶がある。今、思えば、あれは風俗店だったんだろうけど、どこだったのか、どういった形態の風俗店舗だったのがむしろ今は気になる。。。。
後は1回だけ旅行先でキャッチボールをしたこと、小学校の親子参加の行事で、親父が珍しく参加して、リレーを走っていてまあまあ速かったこと、市内の卓球大会で父と2人で親子ダブルスの部に参加したことなどが記憶によみがえってきた。卓球素人のはずなのに、結構上手だったのが記憶に残っている。
そして、仕事をしているところは見たことはなかったけど、どんなに酔っぱらって帰ってきても、次の日には必ず仕事に行っていたこと、パフォーマンスなのか、本当なのか分からないけど、酔っぱらって寝言ではいつも部下に説教をしていたこと、結婚の際の両家の顔合わせの際に、妻の両親に流暢に話題を提供していたことが、当時前職で営業をしていた俺は、父も本当に営業出身だったんだと見直した記憶がある。
社会人か大学生の時に、父が東京に用がある時に、赤羽の寿司屋で飯を食ったことも思い出した。
いざ、その人を失うと色々思い出すもんなんだな。。。。
俺の手元に残っている電子データの写真では、俺が成人式の時の写真と、俺が家族を連れて帰郷した時に、2012年の8月に宮城県作並温泉の旅館へ、2014年の10月に宮城県の秋保温泉のホテルに連れて行ってあげた時の写真が残っていた。
親孝行のつもりで連れて行った温泉旅館だけど、やってあげられてよかったな。。。。。
0 件のコメント:
コメントを投稿